西本願寺書院

法話


【 永遠と刹那 】


≪ 永遠を求める ≫

 コロナ禍で外出も躊躇(ためら)われる中、テレビ三昧の方も多いと思います。私は世界遺産モノが好きです。兵馬俑(へいばよう)やピラミッドは、望むもの全てを手に入れた秦の始皇帝やエジプトのファラオたちが死後の永遠を求めて作りました。

 快適で便利で豊かな文明生活を送っていても、我々は必ず壁にぶつかります。老病死する儚き命という壁に。
 

 世俗の暮らしに明け暮れる私は、ただ「虚しく終える命」なのでしょうか。この問いを感ずるが故に、人間は永遠を求めるのでしょう。


≪ 包み込む海 ≫

 
親鸞聖人著述の「正信念仏偈(正信偈)」は、「南無阿弥陀仏」、お念仏のすくいに出遇った慶びが綴られています。その中に‘’譬え(たとえ)が示されます。

 (釈迦)
   
如来、世に興出(こうしゅつ)したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
   
五濁(ごじょく)(あく)()群生(ぐんじょう)(かい)、如来如実の(みこと)を信ずべし。
   
正信念仏偈(正信偈)訓読 浄土真宗聖典注釈版より
 
(現代語訳)
   
如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。
   
五濁の世の人々は、釈尊のまことの教えを信じるがよい。
   
『顕浄土真実教行証文類(現代語訳)』(本願寺出版)より引用

 
私は海を眺めることが好きです。悠久の大海原と変わり続ける波の姿に「永遠」と「刹那」を感じます。波はひとつとして同じものはありません。「オレはこんなに大きいぞ!」と主張しているかのような波も、儚く砕け散り大海原に包まれてゆく・・・。長く形を保つものや、すぐに崩れるもの。大きな影響を及ぼすものや弱々しきもの。その様子は、「群生(ぐんじょう)(かい)=群れながら生きる凡夫」さながらです。

 
「生きとし生ける全てのものをそのままに(おさ)め取り仏にせずにはおれない」という阿弥陀如来の本願(願いとはたらき)。聖人はしれを数多(あまた)の命を包む「本願海」であると仰いました。

≪ 
はかり知れない仏さま ≫

 阿弥陀如来のお名前は、古代インドのサンスクリット語に由来します。「アミダ」とは、「アミターユス(無量寿=永遠の時間)」「アミターバ(無量光=全ての空間)」の両意を含み、さらに「ア」は否定、「ミタ」ははかるであり、「はかることができない」ということ。「如来」はさとりの世界から来た方の意、仏さまのことです。つまり「時空を超えたはかることが出来ないはたらきの仏さま」を阿弥陀如来と申し上げるのです。

 
聖人はそのお心を正信偈に、「帰命無量寿如来 南無不可思議光(如来)」と示されました。「如来の()び声に命じられ、私親鸞は永遠のいのちの仏さま、光のように(あまね)く照らし包む仏さまに帰依いたします」と。

 
老病死する私。それは辛いこと、悲しいこと、思い通りにならないことの全てを抱えて消えゆく営みかもしれません。しかしその刹那の命をそのままに包む永遠の如来と出遇わせていただく時、「儚く終える命ではあるけれども、決して虚しからず」と、このままの私を頂戴するばかりです。ともに如来のお心を聴聞させていただきましょう。 合 掌

 


千葉県松戸市・高林寺 住職 / 菅原 智之 師 / 築地新報5月号・法話より転載 )

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