西本願寺書院

法話


【 死が私たちに投げかけるもの 】

 
葬儀を通じて出遇い直す

 「葬儀は故人と出遇い直せる最後のチャンスだと思った」

 前に、ある友人が話してくれた言葉です。「生前父親との関係があまり良くなく、自分にとって父親は本当に無口で何を考えているか分からない人だった。だけど、葬儀に参列してくれた元部下の方から、無口だけど部下一人ひとりが努力しているところを誰よりも知っていてくれる上司だったと言われた時、幼なじみからあいつは本当に勘違いされるほど不器用で真面目で義理堅いヤツだったと聞いた時、なんだか父親と出遇い直した気がした」という話をしてくれました。自分の知っている父親のイメージが大きく変わった瞬間だったと。


 私たちは、生きている限り様々な役割の中で様々な顔を持って生きています。そう考えると、一生のうちにある一瞬にしかすぎない一面を「その人」そのものだと思い込んでいる自分がどこかにいないでしょうか。そんな中、ふとした縁で私たちは自らの感覚に疑問を持ち、目の前の人と自分自身に出遇い直していくというプロセスを辿ることがあります。そういう意味で、「死」はとてつもなく大きな問いを私たちに投げかけていることを教えてくれた友人の言葉でした。

 物差しを揺さぶる「死」という別れの先にあるもの

 私自身、最近親しい方の「死」に直面した時、最初は亡くなったという実感が全く湧きませんでした。普段から「死」を語り、初めて経験する別れではないはずなのに、その時とっさに思ったことは「人は死ぬんだ」ということでした。見慣れた、しかし声をかけても覚ますことのない横顔を見た時、初めてとめどない涙と「ありがとうございました」という言葉だけでは、言い表せない思いがこみ上げました。それは、今日も明日も顔を合わし言葉を交わせることが、当たり前だと思い込んでいる私の目を覚まさせ「今を精一杯生きろ」とまるで背中を押された体験でした。ですが、気がつけば時間の経過と共にそれほどまでに命をかけた大きな投げかけも、自身の当たり前に埋没させ、まるで無駄にしてしまっている自分がいました。それはまるで、自分のあさましさを突きつけられた様な瞬間でした。

しかし、だからこそ浄土真宗での葬儀、法事、法要その全ての場面は生きている私たちに仏法を聞く場として開かれているのではないでしょうか。その中で、自らの持っている物差しが大きく揺さぶられ、時に「死」という別れを超えた出遇いをその度ごとに知らされるのです。そのご縁の中で、自覚すらなく自分の知っていることが全てだと思い込んでいた自らの価値観や、その価値観がどれだけあてにならないものなのかを知らされてゆくのだと思います。そこから初めて、他者とそして自分自身と本当に出遇っていく歩みが始まるのではないでしょうか。そして、その歩みは私たちにとって都合の悪いことや死をも含めたこの人生の何一つも無駄にはさせない歩みです。


 


福岡県飯塚市・西光寺 藤井智子 師 / 築地新報8月号・法話より転載 )

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